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コウノトリ湿地ネットブログ - 代表のつぶやきカテゴリのエントリ

パタパタ第8?11号での拙文から、改めて振り返って見てみましょう。
 
江戸時代の様子
 1744年に島地区に舞い降りた記録が最古です。
日にちは旧暦の2月5日、新暦なら2月下旬?3月上旬というところでしょうか。
うーん、厳冬期を過ぎた頃かな?微妙です。
しかも、この個体はすぐ殺されたので、豊岡で冬を過ごしたとは言えないですね。
もちろん、どこから来たのかも分かりません。
 
 次に登場するのは幕末期ですが、
旧暦の3月11日(1840年の出石城上空)、
6月4日(1859年の伊豆地区)と2件とも冬期ではありません。
 
 養父市大養父地区・泉光寺の供養塔に刻まれたコウノトリは旧暦3月(1846年)とありますが、
これは供養塔が建立されたときで、個体の死亡時期は不明です。
 
明治・大正時代の様子
 営巣?繁殖の記録がほとんどですが、
大正12年に兵庫県が刊行した「兵庫県史跡名勝天然記念物調査報告書」に、
「冬期は多少その数を減ずる」とし、
その理由を「恐らく一部の鳥が南方に渡行するが為ならんと思考せらる」と記述されています。
 
昭和時代の様子
 パタパタ9号で触れたように、
昭和初期の様子は、岩佐修理氏、谷垣義三氏の記述が残されていてありがたい。
これをまとめると、次のようになります。
 
?冬期でも「かなり」姿を見るが、出石の谷では毎年、雪が降るとみえない。
?和田山では、12月初旬までは親子でいるが、1月になると親だけ残って、他はいずれかへ行く。そして、次のように結論されている。
「親鳥は土着してこの土地を離れない」
「その年に巣立ったものは、11月末から翌年1月頃にどこかへ渡っていく」
 兵庫県の見解をさらに深めたもので、親鳥と幼鳥に分けて観察されています。
 
 私の知る限り、目撃証言も1件あります。
 片間地区の吉谷氏で、昭和10年の冬、小坂田んぼで1羽が餓死したとのことです。
その剥製は、今も小坂小学校に保存されています。
 
第二次世界大戦後になると、新聞の地元版が貴重な資料を提供してくれます。
「春を告げるコウノトリが今年もまた豊岡市へやってきた」で始まる
昭和27年4月1日の朝日新聞の記事は、
河谷地区の親鳥は昨年の晩秋に飛び去ったが、3月下旬に忘れずに訪れてきた、とあります。
 さらに同新聞は、その年の10月に、豊岡高校教諭・山本茂信氏の
「渡り鳥だが、最近は河谷付近の山の中に巣ごもりして越冬しているようだ。
保護が行き届いてかなり数がふえてきたのではないか」との談話を掲載しています。
 そして、翌28年の同新聞には、越冬ペアが、河谷と福田の2つになったことを紹介しています。

 その後は、周知のとおり、ほとんどの個体が豊岡盆地から離れていません。
 
以上の記録から考えると、
?昭和26年までは、少なくとも、その年に繁殖した幼鳥は、全員(?)が南方に渡っていた。
?豊岡に留まった個体は、大雪の冬期には餓死するものもあった。
?親鳥は渡らずに留まったが、積雪地区では営巣場所を離れた(移動した)。
?戦後、留まる個体が増えだしたのは、保護運動による給餌が影響している。
    と言えそうです。
 
 次回では、現在のコウノトリは、冬、どんな感じで餌を探し、
どんな生きものを食べているのかを見てみましょう。
 


 
 前回のつぶやきに対して、いくつかのコメントをいただきました。
ありがとうございます。
 
年初にもつぶやきましたように、私はこまめに描くのが苦手で、
結果、返信がなかったり遅れたりになりがちです。
 ですから、ついまとめて書くようになります。
 投稿された皆様には大変失礼なことをしています。
お許しいただき、「チェッ!」と舌鼓されながらお付き合いください。
 
まず、Nohoo_Zhooさんからいただいた
 「人工巣塔設置は設置として、給餌問題とは別に歓迎すべきではないか」
に対して
 
 私が今回の巣塔設置で問題としたのは、
私を含めて誰もが陥りがちな「ルーチン仕事」意識に対してです。
 コウノトリ野生復帰に取り組むには、常に再生する意識を持たねばなりません。
現在の(過去のことではありません)環境がコウノトリを死に追いやったのですから、
いつも現状を見つめ直しておらねば、再生などできるはずがありません。
 
 しかし、私たちは、出発時点は緊張感を持ちながら、少し時間が経ち安定してくると、
あるいは担当者が代わり前任者から引き継ぐようになってくると、
「決まっていることをきちんとこなす」ことが重要になってきます。
そして、最悪は無難に予算を消化することに関心が向きがちです。
 
 今回がそうだとは言いませんが、今、本当にコウノトリが餓死するかもしれません。
 私は、せめて全員の様子がはっきりした後でもいいのではないかと思うのです。
 これが初めて放鳥した直後なら、
 おそらく巣塔を建てるより、みんなでまず安否を心配したことでしょう。
 
 「湿地ネットは、雪が降る前からこの場所での設置を問題にしていたか?」について。
 
 コウノトリを野生に帰すとは、人里に再導入することです。
 人里なのですから、コミュニティの問題であり、
 生業、子どもの教育などなどたくさんの課題があります。
 動物も自然も人間もワンセットで考えねばなりません。
 
 『コウノトリ』は農業を変える力を持っており、環境を再生する救世主でもあります。
 だから、豊岡では人工巣塔の設置も、地域再生とセットで行ってきたはずです。
 
 今回の設置場所は、パチンコ店の裏です。
 地元地域との協議もありませんでした。
 私は夜間にウオーキングでこの場所にも来ますが、
パチンコ店駐車場中央の電柱に止まっているコウノトリは誰からも無視されています。
 湿地ネットが、昨年から問題にしていたのは当然と思うのですが。
 
 ※豊岡盆地におけるコウノトリの地域個体群形成と定着に向けた今後の繁殖はどうあるべきか。盆地のキャパシティ、テリトリー等から見て、どこに、どのように巣塔を設置すべきかの問題は、また別の機会にします。
 
夢みるおじさんからいただいた
 「兵庫県と豊岡市が『自信を持って推進したこと』」について
 
 私は2008年3月まで豊岡市役所職員でした。
 コウノトリ野生復帰計画の最初から担当していましたが、
計画策定前後、環境再生取り組み前後、放鳥前後のいずれのときも、
「自信を持って推進」したことはありません。野生復帰の方向性が正しいとの確信はありましたが、成功するとの確信は周りの反応を見れば見るほど持てませんでした。
 私が生存している間は、マイノリティで終わるだろうとの方に確信めいたものがありました。
 自信は、成果の積み重ねで出てくるのでしょうが、
正直、今も持てていません。
まさにこれからだと思います。
 
 「餌を与えない」について
 
 餌を与えないことは、一概に悪とは言えません。
与えずに自立して生きてくれることが最も好ましいからです。
私は、その場で判断しながら給餌することは、与える、与えないではなく、
コウノトリが懸命に自立しようとしていることに、むしろ、「支援していく」ことだと考えています。
 
 では、コウノトリ管理者(行政・研究者)の判断・行為と住民の判断・行動をどう整理したらいいのか?
 過日、このつぶやきの他に、個人の方からメールをいただき、その返信を書きましたので、
その概要を再掲したいと思います。

1.豊岡周辺では、少なくとも江戸後期からコウノトリが生息していました。地形と
気候が水辺の生きものに適していたからです。

2.明治維新以後、全国的に激減した後も、当地では断続的に生息を続けました。
コウノトリを排除しない庶民の風潮があったからです。

3.開発、圃場整備等により野生絶滅した以後も、地形と気候は変わらないため、
自然は復元力を有していました。

4.そこで、放鳥前から、とくに生きものを育む農法、河川高水敷の湿地化、
転作田・放棄田のビオトープ化等々の自然再生事業を進めてきました。

5.自然再生の取り組みは、まだ緒に就いたばかりですが、これらの成果として
餌生物が増えたことが、放鳥コウノトリたちの生活を支えていると自負しています。

6.もちろん、十分ではありませんので、不足分を給餌で補っているのが現状です。
しかし、餌量は具体的にどのくらい不足しているのかについては、判断が非常に
困難です。
 放鳥から5年が過ぎた現在まで、豊岡では餓死した個体はおりませんし、一度も
給餌に頼らない個体も数羽います。

 以上から考えると、市民でも様々な見解があり、反対というよりも、気になる方は自身で判断して自分で給餌されている状況です。

 なお、蛇足ですが、私たちは、「研究者の判断に従わねばならない」とは考えていません。
野生の生きものはだれの所有物でもありませんし、
研究者の意見は「科学的な判断」として一つの参考にするものと考えています。
「研究者に認められていないから給餌できない」というのは、私たちには理解できません。

 コウノトリの郷公園も私たちも共に不十分です。
 だから、今後も、野生復帰を共に進めていく者として議論し合い、
データを出し合いながら、やっていこうと思っています。
 
 
舞雪さんからいただいた
 「もっと開かれたサイトにしろ!」「早く返信しろ!」とのおしかりについて
 
 おしかり、ごもっともです。反論ありません、いや、できません。
弁明するとすれば、1番目に、冒頭に書いた私の性分のせいです。
2番目は、ネットの組織力の弱さです。
 
 ただ、昨秋の国際かいぎ以来、それまでの舞雪さんの倉敷市に加えて、
福井県若狭町、愛媛県西予市から情報を寄せていただいており、その様子は発信しています。
「コウノトリの生息地を全国に広げる市民かいぎ」の成果と思っています。
 
 近年まれな大雪で四苦八苦している最中に、嫌なニュースが立て続けに入ってきました。
 
 一つは、1月27日から、コウノトリの郷公園での給餌が中止されたことです。
 伊丹市でカイツブリから高病原性鳥インフルエンザが検出されたことを受け、
公開ゾーンに出していたコウノトリを、野鳥との接触を避けるために屋根付きのケージ内に移動する措置がとられたものです。
 飼育個体の緊急避難ですから、これは分かります。
 
 問題は、公開ゾーンでの餌を頼って飛来して来る20羽前後の放鳥・野外繁殖個体への措置です。 この場所での給餌は行わない、これも理解はできます。

 私が全く理解できないのは、
鳥インフル発生時のマニュアルには、郷公園外に餌場を設けてそこで給餌する、とあるにも拘らず、「一切給餌はしない」との今回の措置です。
厳冬期、しかも大雪の最中にです。
 そして、鳥インフル厳戒態勢が解除されれば、また郷公園での給餌再開だそうです。
 「なんじゃ、それは!」 (年末にも同様の措置が取られ、このときは9日後に給餌再開でした)
 そのためコウノトリたちは右往左往。
 その様子は、「コウノトリ目撃情報」欄の写真を見られれば誰にもお分かりのことです。
おもわず、郷公園に「鳥の命をもてあそんでいる」と伝えました。

 当然、ハチゴロウの戸島湿地では、コウノトリ湿地ネットがペアに給餌しています。
 
 2つ目は、
2月1日の新聞紙上で、市内日撫地区に人工巣塔が設置されたとの記事に接したことです。
1月31日に設置されたらしい。

 「繁殖場所に選んでくれるかどうかを見守り、今後の巣塔づくりの参考にしたい」(毎日新聞)との郷公園の談話が載っていました。
 私には、大晦日以降の大雪が続く中で、
 餓死する個体が出るのではないかと心配でたまらない人たちがいるときに、
「なんとまあ、能天気な」「それよりも、することがあるだろうに」と思えてしまうのです。
 残念ながら、新聞記事にも批判的な文字は見当たりません。
 
 もしかしたら、昨年ここでヒナを育てたペアが冬を生き抜き、
春にこの巣塔で営巣するかもしれません。
 そうなれば、“めでたしめでたし”なのでしょうか? 
 
 
 私は、これらの措置・作業は、生きもの保護活動とは異なると思います。
 私たちが取り組んでいるコウノトリ野生復帰、目指している「人とコウノトリの共生社会」は、少なくともこんなものではないはずです。
 
 
  このタイトルは、
「豊岡の自然は冬でもコウノトリを支えられるのか?」との問いでもあります。
 今冬は近年の暖冬傾向に逆行するかのような寒さが続いており、
田園では積もった雪がいつまでも消えません。

 冬期間は当たり前ですが、
餌となるイナゴやバッタはとっくに姿を消し、カエルやヘビは冬眠し、魚は水中深く沈んでいます。
その上に一面雪がどっかりと覆っているのですから、
餌を食べれるわけがないと、普通の感覚なら思ってしまいます。

 だから、
 多くの個体はコウノトリの郷公園に餌をもらいに行っていますし、
百合地や戸島ではペアに給餌しています。
 
 「ちょっと待ったぁ!」 “ダーウィンが来た”のヒゲジイみたいなのが登場です。
 「なんだ、それでは野生になっていないではないか。
  人間が手を差し伸べるなら、飼育と同じだ」
 
 横から、野外のコウノトリをよく観察している方が加勢します。
 「コウノトリの郷公園には帰らずに、一生懸命に餌を探して自立して暮らしている者もいるんだ。
人間から餌をもらっている奴は横着者だ。甘やかしてはいかん!」
 
 いつも冷静な男性は静かに発言です。
 「いくら雪が降っても、餌生物がいる所もある。
たとえば、湧水があって雪が溶けている田んぼやビオトープ、
農業用水路も底が土なら小さいけど餌生物はいる。
コウノトリが頑張って探せば、冬でもこの豊岡で暮らせると思うよ。
何羽が限界なのかは分からないけど」
 
 “科学者”もこの機にとばかりに発言。
 「だから、特定の個体を見ていると、つい餌をやりたくなる。
これは『愛護』だ。コウノトリを守るには『種』全体を考えないと。
給餌せずにモニタリングして科学的に判断することが必要だ。
その過程で餓死する者が出ても仕方ない。データが重要だ」
 
  「ブ―」「ブ?」「ブ??」 ブタではありません、ブーイングです。
 
 これには、守勢一方だった給餌派だけでなく、給餌反対・慎重派も一斉に反発です。
 豊岡では、愛情のない科学は、ともかく排除されるのです。
 
ウーム、この問題は、ゆっくりと整理する必要がありそうですね。
まず、過去の様子がどうだったかから探っていきましょう。
 
 続きに乞うご期待。
 1月17日に岡崎正名氏(91歳)が、翌18日には岡博司氏(93歳)が、相次いで亡くなられました。
 
岡崎さんは、長く教育界の重鎮として活躍された方です。私にとっては豊岡市教育委員会時代に職場を共にさせてもらいましたし、近畿大学校友会の大先輩でもありました。
 品格があり、温厚な方でした。
 葬儀の時、思い出の写真を紹介された際に、戦時中は仲曽根元総理の上官だったことが記されていました。
 生前、普通ならポロっと自慢話として出そうなものですが、公務時でも私的なときでも、飲み会の場でも、そんな話は一度も聞いたことがありません。
 「先生らしいなあ」と思ったものでした。
 
 岡さんも同様に品格と温厚を兼ね備えた方でした。
 氏は、パタパタ12号でも書いたとおり、戦後のコウノトリ保護のきっかけをつくられた方です。
 昭和27年頃、当時豊岡市教育委員会の総務課長をされていた氏は、
自宅裏山で営巣していたコウノトリをずっと見守っておられました。
 当時の行政や住民の意識と言えば、農業振興を妨げる害鳥であり、
鶴見物は勤労意欲をなくす悪しき娯楽と捉えられていました。
 行政関係者は、
コウノトリを保護することは農民から被害補償を請求されることになると敬遠していたのです。
 そんな中で、岡さんは都会から来られた研究者を案内し、
大阪での保護検討会議にも出席し、行政の上部機関等へ積極的に情報を出されていました。
そして、それらの行動が東京の山階芳麿博士に届くこととなり、
戦後の保護活動が動き出したのです。
 
 もし、岡さんがコウノトリに関心を寄せられなかったら・・・、
もし他の行政関係者と同じような視点で捉えられていたら・・・、
もし積極的には行動されなかったとしたら・・・。
今日の「コウノトリ」はなかったかもしれません。
 私もコウノトリの仕事に携わるようになって、何度か自宅を訪問していろいろと教えてもらいました。
「ワシが持っとっても仕方がないので、アンタが持っておいてくれ」と、資料をいただいたこともあります。
 昨年の電話で、河谷での営巣数を再確認したのが最後の会話でした。
そのときも、誠心誠意、懸命に記憶を引き出していただきました。
 
 岡崎さん、岡さん、本当にありがとうございました。