近年、かつての「入会(いりあい)」の概念を、外来語の「コモンズ」という言葉で表現されることが多くなっています。
コモンズとは、東京大学東洋文化研究所の菅豊(すが ゆたか)教授によれば、「資源利用が特定集団に限定され、その集団によって決められたある規則に則って管理され利用される共的資源、それらが存在する空間」だそうです。
私には、「なんだ、やっぱり入会でいいんではないか」と思ってしまいますが、「では、入会でいいんだな」と言われると、入会は長い歴史の上に厳密な規定がしっかりとあるので、田結地区のこれからのことを考えようとしている場合にも当てはまるかは「うーん」と黙り込まざるを得ません。
自信がないので、外来語は嫌いですが、当面はコモンズを使います。(今後、活動形態が固まってくるうちに、誰かぴったりの日本語の言葉を考えてください)
で、次なる関心事は、「どのように人々が共同して資源を利用し、共同で分配、維持管理しているかというシステム」(菅)となるのですが、それではあまりにも早く進み過ぎます。
ゆっくりと、まずは、「土地」というものに思いを馳せてみましょう。
魅力的な文章があります。アメリカ合衆国、フランクリン・ピアース大統領に宛てたアメリカインディアン、シアトル酋長の1855年の手紙です。(「ダニエルズ編『出会いへの旅―メニューインは語る―』?みすず書房」より) 長いですが原文のまま掲載します。
ぜひお読みください。
白人の都市には、静かな場所がありません。
秋の葉音や昆虫の羽音をきく場所がないのです。
たぶんわたしが野蛮人でわからないために、騒々しい話し声が耳を辱めるのでしょう。
そしてもしも人間がヨタカの美しい鳴き声や、
夜になると池の周囲でおこなわれるカエルの議論を聞くことができなければ、
生活はどうなるでしょうか?
インディアンは、池の水面をさっと吹いてゆく風のかすかな音や、
真昼の雨に清められたり松のかおりを発散したりする、
風そのもののにおいのほうを好むのです。
空気はインディアンにとって貴重なものですが、
それはすべてのもの―動物と樹々と人間自身―が同じように呼吸しているからです。
白人は、自分が呼吸している空気に気づいていないようです。
死んで何日もたった人間のように、彼は自分の悪臭に無感覚なのです。
もしもわたしが受諾するならば[ここでシアトル酋長は、
白人が買いたいと思っている土地に言及しています]、わたしはひとつ条件をつけます。
つまり白人はこの土地の動物を、自分の兄弟とみなすべきである、ということです。
わたしは野蛮人ですので、ほかのどんな方法もわかりません。
わたしは大平原の上に多数の腐敗してゆく野牛を見たことがありますが、
それは白人が通過する列車から射殺して置き去りにしたものです。
わたしは野蛮人ですので、われわれが生きるためだけに殺す野牛よりも、
どうして煙を吐く機関車のほうが大切であるのかわかりません。
動物がいなければ、人間はどうなるでしょうか?
もしもすべての動物がいなくなったとしたら、人間は魂の大きな孤独さのために死ぬことでしょう。なぜなら動物の身の上に起こることはなんであれ、人間の身にも起こることですから。ありとあらゆるものは結びついています。
大地にふりかかることはなんであれ、大地の子にもふりかかるのです。
われわれの子供たちは、父親が敗北して誇りをくじかれたさまを見ました。
われわれの戦士たちは恥辱を感じました。敗北したのち、彼らは毎日を怠惰に過ごし、
甘い食物と強い酒で自分の肉体を不純なものにしています。
われわれが残された日々をどこで過ごそうと、たいした問題ではありません―それは多くの日数ではないのです。
さらに数時間、さらに数回の冬が過ぎれば、かつてこの大地の上で生活し、
小さな集団となって森林を歩きまわった偉大な部族の子供たちのなかで、
かつてはあなたの国民と同じほど力強く希望にみちた人びとの死を哀悼するために残る者は、
だれひとりいないことでしょう。
ただひとつのことをわれわれは知っており、
白人はいつの日かそれが真実であることを発見するでしょう。
つまりわれわれの神は、あなたがたの神と同じである、ということです。
あなたはいま、われわれの土地を所有したいと望むのと同じように、
神を所有していると思うかもしれません。だがあなたには所有できません。
彼は人間の神なのです。
そして神の哀れみは、インディアンと白人に等しく向けられています。
この大地は神にとっても貴重なものであり、大地をそこなうことは、その創造者に侮辱を浴びせることです。
白人たちもまた―たぶんほかの種族よりも早く―死ぬ運命にあります。
あなたのベッドを汚しつづけるならば、あなたはいつの夜かみずからの排泄物で窒息するでしょう。野牛がすべて惨殺され、野生の馬がすべて馴らされ、
森の奥まった片隅が多くの男たちの体臭でみたされ、
豊かに茂った丘の眺めがお喋りな女房たちによって汚点をつけられるとき、
茂みはどこにあるでしょうか?
なくなっています。ワシはどこにいるでしょう?
いなくなっています。これは、生きることの終わりと生き残ることの初めを示しているのです。
白人がなにを夢み、長い冬の夜にどんな希望を子供たちに語り、
彼らが明日を望めるようにどんなビジョンを彼らの心に焼きつけるかを知っていれば、
われわれにもわかるかもしれません。
だがわれわれは野蛮人です。
白人の夢は、われわれから隠されています。
そしてそれが隠されているために、われわれはみずからの道をゆくでしょう。
もしもわれわれが自分の土地を売ることに同意するならば、
あなたがわれわれに約束したインディアン保留地を確保することになるでしょう。
たぶん、その地でわれわれは、短い日々を望むがままに生き抜くかもしれません。
最後のインディアンが大地から消え去ってしまい、
彼の思い出が大平原を寄切ってゆく雲の影のようになるとき、
これらの岸辺と森林はわたしの部族の魂をなおも保持しているでしょう。
なぜならわれわれは、生まれたばかりの幼児が母親の胸の鼓動を愛するように、
大地を愛しているからです。
続きは後日に。